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栄光学園・加藤旭君が脳腫瘍と闘い作曲し続けた人生をWikiとしてまとめ黙祷したい

難病である脳腫瘍と戦い視力を全て失った少年が作り続けている曲が天才的だと評判になっています。
2015年11月、東京・銀座ヤマハホールでのコンサートである少年が作った曲が演奏されました。
その少年の名前は加藤旭(かとうあさひ)君(16)です。

響き渡る自作のメロディーにじっと耳を傾ける少年こそ、神奈川県内在住の高校1年生の加藤旭君です。

2015年11月25日に放送された「スーパーJチャンネル」で放送された、栄光学園・加藤旭君の闘病生活の内容を元にWikiプロフィールとしてまとめました。

加藤旭Wiki風プロフィール

  • 生年月日:1999年10月10日
  • 出身地:滋賀県彦根市
  • 育ちは神奈川県足柄上郡大井町
  • 2015年11月時点で、栄光学園高等学校1年生

幼い頃から才能の片鱗が表れる

プロの音楽家も驚く作曲の才能を持っている加藤旭君ですが、その才能の片鱗は3歳のすでに表れていました。
その頃は音符の様なものを描いていただけでしたが、4歳になると鍵盤をたたかなくても頭の中で音が想像できる様になっていたのです。
5歳の頃には自らが作った曲をピアノで弾く様になったのです。

小学校に入学すると担任の先生が旭君の才能に気付き、皆で歌う合唱曲を作る様に依頼したのです。
そして本格的な作曲を開始し、8歳の頃には作った曲が東京交響楽団のテーマ曲に選ばれました。

10歳になる頃には、作曲した曲の数は500曲にも及んだのでした。

旭君は、自分は今曲を作っているんだなどとは子供の頃は思っていませんでした。
いつでも五線譜を持ち歩いて何となく思いついたのを音符として書くのが楽しかったのです。
旭君にとって作曲は特別な事ではなく、虫取りの様な楽しい遊びみたいだったのです。

中学2年の時に脳腫瘍が発見される

その後も才能に磨きをかけていった旭君に青天の霹靂ともいえる事が起こりました。
中学2年の秋に脳腫瘍が発見されたのです。

脳腫瘍と言われてもその時は何の事か分からなかったんですけど、頭の痛みから結構な病気だろうとは思いました。
手術が必要だったり、もしかしたら家族が判別できなくなるかもというのを聞いて、本当に落胆しました。

と、16歳の旭君は語りました。
「もしかしたら家族が判別できなくなるかも」というのは失明の事なのでしょう。

11時間にも及ぶ手術は無事成功したものの、そこからは長い闘病生活が待っていました。

治療の影響で髪の毛は抜け落ち、食欲もなくなりました。

2015年11月現在の加藤旭君

家のベッドで力なく横たわる旭君は、最後に学校へ行ったのは夏休みよりも前と語ります。
体調は良い?との質問には
「まあ、はい」
と答えますが、決して良さそうには見えません。

2年前に発症した脳腫瘍以降、これまで5回もの手術を受けました。

2015年5月には視力を完全に失いました。
一時は自力で動けなくなり寝たきり状態となっていたのです。

毎朝母親が声をかけてリハビリを続ける事により、ようやく少し動けるようになったのです。
リハビリの後は欠かさず鍵盤へと向かいます。

世のためにCDを出す事を両親が提案

ご両親はわが子のために何が出来るかを考えた末、旭君が作った曲をCDにして世に出す事を決めました。

はじめはCD作りに乗り気ではなかった旭君ですが、闘病生活を綴った日記には
「自分が作った曲を何かに役立てたいと思う様になりました。」
と書かれていました。

病気でいろんな人に助けていただいているので、患者さんたちとその家族達が聴いて少しでも力になればと思います。

と、とても15歳とは思えない大人びた立派な考えをお持ちです。

CDは2015年5月に完成し、その曲を多くの人が耳にする様になりました。
曲を聴いた方の感想は

とても小学生が作った曲とは思えない曲ですよね。
何と言うか心が洗われるというか、子供の素直な心が表現されていてすごく繊細で、作った子に会ってみたいと思いました。

楽しみは外出

病で視力を失った旭君の楽しみは外出です。

家でただ寝ているだけよりも動けるのが楽しいし、家では聞こえない音が耳から入ってくるのもいいです。

とお父様が押す車椅子に乗って鎌倉市の森の中を移動する旭君は語りました。

それでも視力を失った旭君のショックは大きく、心境は日々揺れ動きます。

これまでは頭に曲がどんどん浮かんできてそれを自分で譜面にかけてたのですが、今は思いつくのも遅いし思いついても字が書けるわけではありません。

と悲しく語ります。

コンサート発表後の心境の変化

冒頭で述べた様に2015年11月に都内で開かれたオーケストラの公演で旭君の曲が演奏され、ご本人も会場で聞き入ります。

拍手喝采を浴び、帰宅すると

拍手の音や相当響くオーケストラの音を聴いて、音楽に戻ってきた気がしました。
自分の気持ちがどん底だったところから、たくさんの先生や見舞いにきてくださった人によってここまで立ち直れたところです。
だからそれと同じように僕の曲でそうなるか分かりませんけど、少しでも元気になる人が増えてくれるといいなと思います。

と、ネガティブな気持ちを払拭し、達観したかの様な晴れ晴れとした表情で語りました。


会場で拍手を受ける時の加藤旭君の表情を見るに、なんて素敵なんでしょうか。

「船旅」を聞きながら旅立つ

目が不自由なところをお母さんにカバーしてもらい二人三脚で曲作りを続けた旭君ですが、2016年5月20日に自作のピアノ曲「船旅」を聞きながら、16歳の若さで旅立ちました。
旅立ちを自分で決めたかの様な立派な表情だったそうです。

ここまでの有り余る才能で偉大な名曲を残し続けた加藤旭君。
私達凡人が何回生きても創造できなかったものをこの世に残し、早すぎる人生の船旅を終えたのでした。

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